2012年6月12日火曜日

なつやすみ特集はじまりました!

6月9日よりコレクション展2「なつやすみ特集 松本英一郎 風景は微細動する」が始まりました。

まだまだ来場者は少ないですが、なかには1時間、2時間滞在してくださる方もあり、うれしいかぎりです。

8月31日までと長くやっておりますが、できれば何度も見ていただきたい、そんな展示になっています。

みなさんのお越しをお待ちしております。


。。。って、それだけではどんな展覧会は分かりませんよね。

ごもっとも。では特別大サービス、来場者にお配りしているリーフレットの文章を掲載します。

絵はまた今度ね。と、もったいぶってみたり(笑


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松本英一郎が描く風景画は大きい。

それは、絵画作品としての迫力や描かれた風景の雄大さをアピールするためのものではおそらくない。そうではなく、遠くから見ることを促すための手段であるように思える。

松本はしばしばえぐられた地面や不格好に盛り上げられた地面を描いている。「その地面の奇態に、何の抵抗もなく入っていく私自身を丁寧に見届ける必要」があると彼は言う。描かれているのはたしかに地面であり、風景である。しかし描こうとしているのは、それを見て、感応している画家自身の眼差しである。風景と向き合い、訳も分からぬままに心を揺さぶられるその震えのようなものを、絵として描きだそうとしている。

たしかに松本の「風景」は震えるのだ。垂直線を排して水平線で構成された画面は時間とともにわずかに揺れはじめ、雲は手前に伸びてきたかと思うと奥に引っ込み、白黒のまだら模様の牛は丘陵の襞模様の間で見え隠れし、そのうち白とピンクの縞模様の雲(あるいは花)と溶けあう。空を上下に挟む雲と丘陵がときに入れ替わり、世界の上下は混濁する。ぼかしやにじみなども多用しながら巧みにつくられた画面が視覚的な震えをもたらし、それはそのまま画家自身が体感したであろう心理的な震えへと転化される。

ただしそのためには距離を必要とする。離れて見ること、想像的に見ること。

松本は決して風景の美しさの中に没入しない。いや、彼自身が風景を前にして「美しいなあ」と素直なため息を漏らすことはもちろんあっただろう。しかし画家である彼はその美しさとは距離を取り、時間をかけてまなざし、身体をとおして風景との関係を思索する。

「退屈で、退屈で、体がじんじんするのを感じられればそれが最高だ」と言う松本は退屈な「風景」を描き、描くことで風景との関係を思索した。

風景と松本との間に横たわる震えをもたらすなにか、「じんじん」させるなにか。そのなにかをひとまず「空間」と呼ぶこともできるだろう。しかしそれは通常イメージされるところの静止した空っぽの広がりとは異なり、密度と動きをもって目や耳、肌に生々しく触れてくる。大きな画面のさらに大半を占めるあの空と同じように。

松本が遺した膨大なスケッチの山の中から「なさそうで実在する風景 ありそうで実在しない風景」という書き込みを見つけた。だからといって彼の「風景」がそのどちらに属するのかと答えを導くことはやめておく。彼の「風景」の魅力とはむしろ、その境界を行き来しつつ、これがどちらに属するのかと考えさせるところにある。ひとたび松本の「風景」を通過した私たちの眼前には、あらゆる風景が瑞々しさをもってたち現れてくるだろう。

そして改めて知るはずである。風景とは「風」の「景」色であることを。

そして吹き抜ける風を感じるためには、やはり絵の前から遠ざからなければならない。